4. 共在感覚

このような発話に対する構えは,彼らの日常の社会的経験と深く関連している。とくにそれが感じられたのが,彼ら同士のつながりの感覚に関してである。

私は調査の一環として,数人の男女にノートと腕時計を渡し,毎正時(7時ちょうど,8時ちょうど…)の瞬間に,誰と一緒にいたかを記録してもらっていた。そのとき一人のインフォーマントの男性が,村の中ほどの集会小屋に座っているとき,20メートルも離れた,土壁を隔てた自分の家の調理場にいた一人の老女を「一緒にいた人」として何度も記録していることに気づいた。 このとき私は,彼らの「他者と一緒にいる」感覚(「共在感覚」)が,我々のそれとかなり異なっていることに気づいたのである。

上記の老女が大声で語っている。
右が集会小屋,左手前が調理場

この二人の共在感覚の基底となっているのは,彼らの大声の発話だと考えられる。20メートルの距離を隔てても,彼らは対面的状況と同様に会話を交わすことができるし,また実際に会話を交わしてなかったとしても,いつでもそうできる用意は整っているのである。

こういった形の共在感覚は,どの範囲まで及んでいるのだろうか。その広がりの外縁を示唆するもうひとつの事例がある。私はロソンボを訪れる人々を観察していて,思いのほか互いの挨拶が少ないことに気づいた。 挨拶をする/しないの境界がどこにあるのかをさまざまな角度から検討したところ,その区別は,両者が住んでいる家が距離的に近いかどうかに一番強く相関していることが明らかになった。当人の家から150〜200メートル以内に住んでいる人に対しては,挨拶はなされないのだが,それより外に住んでいる人には挨拶がおこなわれるのである。このことは,彼らはその範囲内の人とは,対面的でなくても潜在的に「出会っている」,すなわち共在感覚をもっていることを示唆している。この距離は,大声を出せば届く範囲であると解釈されるのである。

(詳しくは,木村著「共在感覚」2003を見てください。このリンクをたどると,投擲的発話のストリーミング動画を見ることもできます。)

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