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バカ・ピグミー

目次

(この項目は,木村大治「共在感覚−アフリカの二つの社会における言語的相互行為から」(2003)よりの転載です。)

「ピグミー」とは

よく誤解されるのだが、アフリカに「ピグミー族」という固有の民族集団がいるわけではない。人類学的な定義では、ピグミー Pygmy という呼び名は、成人男子の平均身長が150cm以下の集団のことを呼ぶ名なのである。その語源は、ギリシャ語の「ひじからこぶしまでの長さ」をあらわす単位だと言われている(もちろん誇張的なたとえだが)。アフリカにもアジアにも、定義上ピグミーにあたる低身長の人々は居住しており、前者はネグリロ、後者はネグリトと呼ばれている。

このようにピグミーとは本来、民族集団として定義されるものではなく、形質的な特徴による呼び名である。しかし実際上は「ピグミー」という呼び名は、熱帯雨林に住み狩猟採集をおこなっている低身長の人々を指す呼び名として使われている。森林地帯に住んでいる動物は、オープンな場所に住む近縁種に比べて体が小さくなるという傾向がある(たとえば、森林性のマルミミゾウLoxodonta africana cyclotisは、草原性のアフリカゾウLoxodonta africana africanaに比べて一回り小さい)。それは樹木に引っかかりやすい森林中でスムーズに活動するための適応であると考えられているが、このことはピグミーにもあてはまるのだろう。実際、森の中をピグミーの人々と一緒に歩くと、彼らが何の苦労もなく通過する木々の間を、引っかかりながら進んでいくという、みじめな思いをしなければならない。

アジアのピグミーとアフリカのピグミーは遺伝的に近縁だと考えられたことはあるが、今ではこの説は否定されている。しかし少なくとも、アフリカ熱帯雨林に住むピグミー系集団(右図)の多くは遺伝的に近く、Bahuchet [1993]によると、これらの集団は少なくとも二万年前から、まわりの集団と遺伝的に分岐していたと考えられている。またアフリカのピグミー系集団には共通して、特徴的な歌と踊り、森の精霊の登場する儀礼、活発な蜂蜜採集といった文化要素がみられる。このような森林への適応形態から、彼らはアフリカ熱帯林の先住民であるとされることが多い。しかし、少なくとも現在のピグミー系狩猟採集民は、何らかの形で農耕民と関係を結んで生活している。農耕による産物にまったく依存することなしに、熱帯林のなかで生きていけるのかという問題については、さまざまな議論があり、ピグミーたちは農耕民たちと手を携えて熱帯雨林の中へ入ったのではないかと考える研究者もいる[Bailey et al. 1989]。

ピグミー研究の歴史

ピグミーが最初に歴史上の記録にあらわれるのは、約4500年前のエジプトの文書であると言われている。記録の中で、エジプトのファラオは、軍の指揮官に「樹木の国からの真性のコビト」「霊地からきた神の踊り子であるコビト」を宮廷まで連れてくるように命令しているが、この記述がピグミーのことを指しているのはほぼ間違いあるまい。また、その2000年後に書かれたアリストテレスの「動物誌」にも、ピグミーの記載があらわれている。しかしその後中世になると、ヨーロッパの記録からはピグミーへの言及は消え、彼らがヨーロッパ人に「再発見」されるのは、アフリカ探検が盛んになった一九世紀以降のことになる[Turnbull 1961][市川 1982、2001]。

20世紀に入ると、パウル・シェベスタ、パトリック・パットナムらによって、東部ザイールのイトゥリ・フォレストに住むピグミーに関する人類学的な研究がはじまった。そして何といっても有名なのは、1950〜60年代にイトゥリで長期の参与観察をおこなった、イギリスの人類学者コリン・ターンブルの仕事だろう。彼は著書「森の民」[Turnbull 1961]において、共感的な語り口で森に生きるピグミーの姿を描き、その後のピグミー観に大きな影響を与えることになった。

一方、人類進化史の復元という観点から狩猟採集民研究に取り組んでいた京都大学の研究グループは、1970年代から、アフリカのピグミーの調査に着手した[伊谷 1961][Harako 1976][Tanno 1981][市川 1982]。初期の生計生態学的な研究から、やがて自然認識、子供の遊び、近隣の農耕民との関係といった領域に対象は広がっていった。私が農耕民ボンガンドの調査に入るより少し前、大学院の一年先輩の澤田昌人さんがイトゥリのエフェ・ピグミーの社会に入り、会話や歌と踊りといった、新たな側面へのアプローチを開始している。

その後1980年代後半から、コンゴ共和国においてアカ・ピグミーの研究が開始された[竹内 1994, 2001][Kitanishi 1995][北西 1997]。アカは1960年代の後半より、中央アフリカ共和国で、フランスのセルジュ・バウシェらによって本格的な調査が開始されていたが、コンゴ共和国における研究は手つかずだったのである。

そして90年代に入り、ザイール内戦の影響で、私を含む中部アフリカの研究者がカメルーンへと調査地を移すことになり、日本人によるバカ・ピグミーの研究が始まることになった。バカに関しては1960年代より、植物学者ルツゼーによる植物名の研究、カトリック・ミッションのブリッソンらによるバカ語辞書の編纂[Brisson & Brusier 1979]、アルタベ[Althabe 1965]、ンディー[Ndii 1968]らの社会変容に関する研究があったが、本格的に人類学研究をおこなったのは、前述したベルギーの研究者ジョアリであった[Joiris 1998]。カメルーンの政情が安定しているということもあり、われわれの予備調査の後、日本人研究者が続々とこの地域に入りはじめた。

バカの系統と言語

バカ・ピグミーは、カメルーン東南部を中心に、コンゴ共和国北部、中央アフリカ共和国西部、ガボン北部に分布している。人口は三〜四万人との推定があるが[Ndii 1968]、ヨカドゥマからモルンドゥまでのバカの集落を広域調査した佐藤によると、それよりもかなり多い可能性もあるとのことである。

バカは隣接するピグミー系集団であるアカと、言語を除いて強く類似している。バウシェの民族言語学的分析によると、両者は数百年前まで、バアカBaakaと仮称されるひとつの集団であったと推定されている。またバカおよびアカはイトゥリ・フォレストのムブティとも、社会構造、生業、儀礼、歌と踊りの様式などの諸点で強く類似している。このような理由からバウシェは、バカ・アカの祖先は過去にムブティから分かれ、西方へ移住してきた人々ではないかと推定している[Bahuchet 1993]。

遺伝的、文化的には高い共通性を持つこれらのピグミー系集団だが、それぞれの集団の言語はすべて、隣接した他の民族集団のものの借用である。なぜピグミー系の人々は、言葉だけはそのように急速に変えるのか。はたして「原ピグミー語」といったものが過去に存在したのか。これらはピグミー研究における大きな謎のひとつである。もとはひとつの集団だったと考えられるアカとバカだが、現在アカはバントゥー系の言語を喋り、バカはそれとは類縁関係の薄いウバンギアン系の言語を喋る。(ウバンギアン系言語はバントゥー系とまったく関係がないわけではないようだが、たとえば名詞のクラスが存在せず、その結果名詞クラスの接頭辞が動詞、形容詞に頭韻としてつくことがない、というように、バントゥー系言語の基本的な特徴を欠いている。)バカがその言語を取り入れたと考えられるウバンギアン系の民族は、いまはバカの近隣には存在していないのだが、中央アフリカ共和国に居住するNgbakaらの民族集団がバカ語に近い言葉を喋っていることから、過去にこの系統の人々と接触があったものと推定されている。したがって「バカ語」とは呼ばれるものの、彼らの言語もまた、近い過去に他集団から取り込んだものなのである。バカ語に関しては、先に述べたブリッソンらの長い研究があり、大部のバカ語--フランス語辞書[Brisson & Brusier 1979]、フランス語--バカ語辞書[Brisson 1984]、文法書、民話集、聖書などの書籍が出版されている。

生態と社会

 環境と生態

フィールドステーションの設置されているンバカ集落は、カメルーンとコンゴ共和国の国境を流れるジャー川の北岸に位置している(右図)。標高は380m前後(GPSの測定による)、年間降水量は1600〜1800mm、平均気温は年間を通じて24〜25℃である[林 2000]。季節は12月〜2月の大乾季、3月〜6月の小雨季、7月〜8月の小乾季、9月〜11月の大雨季に分かれる。バカの分布域は全体に、平原に川が葉脈状に谷を刻み、起伏を作り出している地形である。

もとは森林の中にキャンプを作り、移動性の高い生活を送っていたバカだが、1930年代以降、フランス植民地政府やキリスト教ミッションによって定住化が促され、またプランテンバナナ、カカオ等の農耕が定着したことにより、今では街道沿いに集落を作って住むようになっている。しかし彼らは乾季には大挙して森に入り、数ヵ月にわたって村から数キロないし数十キロメートル離れた場所で狩猟・漁撈にいそしむキャンプ生活(バカ語でモロンゴと呼ばれる)を送ることが多い。たとえば、2000年にンバカ集落に着いた私と北西功一さん(山口大)は、70人ほどいるはずのバカの人たちが、ほとんど集落に残っていないことを知って唖然とした。その年は森で、フェケ(Irvingia gabonensis}、通称「ブッシュ・マンゴー」、種子から油を取る)が大豊作で、バカはみな森のキャンプに入り、その採集にいそしんでいたのである。このように、彼らと森とのつながりはけっして切れたわけではない。

バカは焼畑農耕によってプランテンバナナ、トウモロコシ、キャッサバ、タロイモ、ピーナッツ、カカオなどを栽培しており、畑は農耕民に劣らず立派なものも多い。カカオ栽培は、彼らの主要な現金獲得源となっている。ピグミー系狩猟採集民のほとんどは、近隣の農耕民との間に、肉あるいは労働力を提供し、その見返りに農作物をもらうという、いわゆる「共生的関係」を形作っていることが知られているが[寺嶋 1997]、バカにおいても、農耕民のカカオ栽培などを手伝い、賃金や食料、物品を手に入れることが重要な生計活動となっている。しかしそこには、ムブティやアカで報告されている、農耕民との固定的なパトロン--クライエント関係は存在せず、両者の関係は雇用--被雇用とでも言うべき、より対等なものである。

狩猟活動は盛んだが、弓矢猟・槍猟はあまりおこなわれず、ダイカー(森林性のレイヨウ類)を対象とする跳ね罠猟の比重が高い。また、農耕民に借りた銃を用いた、主としてサル類を対象とする銃猟も盛んである。さらに、狩猟の熟練者「トゥーマ」を中心とした、ゾウを含む大型動物の狩猟もおこなわれている[林 2000]。これらの獲物は自家消費されるほか、生のままあるいは干し肉の形で売られる[Stromayer & Ekobo 1991]。とくに最近は、木材伐採会社で働く人の食料としての肉の需要が増えているようである。蜂蜜採集は大乾季にさかんにおこなわれる。また女性は乾季の間、小川で掻い出し漁にいそしみ、ときには魚毒漁もおこなわれる。野生植物の利用はさかんであり、野生のヤムイモ Dioscorea sp. [佐藤 2001][Dounias 2001]やココ(通称アイアンリーフ) Gunetum sp.、前述のフェケIrvingia gabonensisなどの採集がおこなわれている。

 社会構造

バカの社会には、「イェ ye」 と呼ばれる父系のクラン(教科書的に言えば、「共通祖先が伝説となっている、規模の大きい出自集団」のことだが、バカの場合、共通祖先が認識されているわけではない)が存在する。イェは外婚的であるとされている[Joiris 1998]が、それ以上の社会統合の機能はもたないようである。居住形態は、夫方居住婚の傾向が強いが、婚資労働のため、夫がしばらくの間妻方に住み込むということもしばしばある。集落には「ココマ」(あるいはフランス語で「シェフ」)と呼ばれる集落の代表者的な人物はいるが、強い政治的権力を持っているわけではない。大型動物の狩猟の名手トゥーマも、その権威が発揮されるのは、狩猟の場においてのみである。こういった意味で、バカ社会はあまり階層化のみられない社会であると言える。

定住集落間の人々の行き来はかなり頻繁で、森の中を歩いてしかたどり着けない、何十キロも離れた集落の間でも、「この間あそこから来た男に会った」などといった話はよく聞く。また都留によるバカの歌と踊りの集会「ベ」の分布調査では、近隣の農耕民よりもはるかに広いバカの居住域の中でも、メジャーな「ベ」は非常に分布していることが明らかになっている[Tsuru 1998]。このようなバカ文化の均質さは、人々の流動性によって支えられていると考えられる。

農耕民との関係

バカの分布域には、バクウェレ、バンガンドゥ、ボマン、ボンボン、コナベンベ、ンジメ、ンジェムといったバントゥー系・ウバンギアン系の農耕民が居住している。一般に狩猟採集民は、地域社会の中で他の民族集団に対して低い地位に押しやられていることが多い。バカは生業活動においては農耕民との差がなくなってきているのだが、両者の間にはいまだに明瞭な差異意識が存在する。農耕民はことあるごとに、バカたちに命令しようとする。農耕民の男がそのような事態を「パトロン--クリヤン(クライエント)」という「社会科学的用語」で表現しているのも聞いたことがある。農耕民の男性はバカの女性と結婚することができるが、バカの男性は農耕民の女性と結婚することはできない。

しかし、他のピグミー系狩猟採集民に比べれば、バカと農耕民の関係は、より対等に近づいていると言える。たとえば、バカは農耕民から肉を買うことがあるが、アカでの長い調査経験を持つ北西氏はそれを見て「アカでは絶対に見られないことだ」と驚いていた。またバカは農耕民に対してかなりの「敵愾心」を抱いているらしく、私に対しても、ことあるごとに「Kaka (農耕民)は悪い」「Kakaはわれわれを殴る」などと愚痴をこぼしていた。しかし農耕民と同席しているときには、彼らはそういった態度を表に出さず、和気あいあいと会話を交わす。ピグミー系の人々の特徴である社会的態度の変幻自在さ[竹内 2001][塙 2003]が、このようなところにあらわれていて興味深い。

農耕民はそれぞれの民族集団の言葉を喋る。ドンゴ近辺の農耕民の言葉バクウェレ語は、Guthrie [1971]のバントゥー諸言語の分類ではA-85bとされ、ウバンギアン系のバカ語とは系統的に遠い。しかしンバカ集落のバカの多くはバクウェレ語を喋ることができ、バクウェレのなかでも片言のバカ語を使える人は多い。またリンガラ語、フランス語も両者の共通語として使われることがある。