「白人の捨て子」とバミレケの調査助手1人、バクエレの若者2人による”ジャー河探検計画”とその顛末(Essay by 大石高典)
左:丸木舟で遡行中(2002年2月14日/撮影:大石)。右:航空写真から見たジャー河と周辺の森(Google Earthより)。
1. 川縁(かわべり)のむら
二〇〇二年二月、私はDja河の岸辺に居た。二月は乾期の真っ最中である。壁のようにつづく森の中のダートを、ひたすら四輪駆動車で走ったその先に、河が現れたのだった。私はひどく乾いていた。白く砂ぽい地面が切れて、滔滔と流れる水があった。深い青をしていた。うれしくなって近づいてみると、粘土を溶かし込んでいるのか、濁った茶に変わった。村は、河岸段丘の上に作られ、水面よりもずいぶん高いのだ。岸辺には、丸木舟がいくつも繋がれ、水面には対岸の黒々とした森が揺れている。
昼下がりの明るい日差しが照りつける村には、あまり人も居らず、ヤギとニワトリばかりが目立ち、なんとなく物憂い雰囲気が漂っていた。照りつける日差しと、それを照り返す白い地面、水の眩さには、わたしに秋野不矩が天竜川の浜辺を描いた「砂上」という作品を思い出させた。何軒かの軒先には、白い木の実(イルビンギア・ナッツ)が干され、また他の何軒かでは魚網が干されていた。ここは、バクエレという「焼畑農耕民」の集落のはずなのだが・・・。
2. 出発準備
川縁のむらには、照り付ける太陽のもと、留守の家が多い。村人はいったいどこに行っているのか。何度も尋ねたところ、<a la peche=「魚とりに」>という答えが返ってきた。どうも、泊りがけで河の上流に出掛けている世帯が多いらしい。調査隊の小屋があるンバカ集落のバカ・ピグミーたちも、カタコトのフランス語しかできないわたしに身振り手振りを交えて、上流のキャンプに行くと、いかにたくさん魚が食べられるか、を説明してくれた。食べ物に眼がない私は、その瞬間これはひとつ出かけてみよう、と思った。出掛けるには舟と漕ぎ手が必要だ。
「白人」が川に行こうとしている、という情報がどこからか洩れ伝わると、いつのまにか集まってきた村人たちはわれもわれもと手を挙げだした。英語が使えるバミレケの調査助手、セルジュに付き合ってもらい、何回も交渉を繰り返したが埒が明かない。結局、争いの種になることを警戒して、隣村ミンドゥルの若者二人、パガルとコロネルに協力してもらうことにした。そして2002年2月16日の朝、ドンゴ村の最上流の船着場であるリギンバ・ポートから、私、セルジュ、パガル、コロネルの4人はジャー河に漕ぎ出したのだった。