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アフリカ熱帯林の歴史生態学にむけて by 市川光雄

「地球の視点」と「地域の視点」

現在、世界各地で熱帯雨林の保護が問題になっているが、その際にたびたび強調されるのが、これは「グローバルな問題」だということである。熱帯雨林の破壊は、稀少種を含む生物多様性や遺伝子源の消失につながり、また大気中の二酸化炭素を増加させることによって地球温暖化をもたらす。それらは地球規模での取り組みを必要とする人類共通の課題である。こうした認識にもとづいて多額の資金と人員が投入され、世界各地で熱帯雨林に関する調査と保護活動が行われている。熱帯雨林に関わる活動は今や世界的なネットワークのもとで、政治・経済、研究・教育・広報、そして実際の保護計画を巻き込んだ幅広い展開をみせている。

熱帯雨林をめぐるこのような取り組みにおいてこれまでほとんど顧みられなかった問題がある。それは、地域における住民と森林との関係についての問題である。グローバルな見地から熱帯雨林の保護を目指す側にとって、地域住民はその「貧しさ」ゆえに森林を破壊する者であった。あるいはせいぜい、保護計画によって資源へのアクセスを奪われることに対する代償を考えるべき存在であり、森林保護の重要性を理解させる「環境教育」の対象くらいにしか考えられていなかった。彼らがどのように森を認識・利用し、また維持してきたかといったことが問われたことはほとんどなく、住民と森林との間の文化的かつ歴史的な関係は、人類学者等のごくわずかな研究者の注意を惹くものにすぎなかった。

中央アフリカの狩猟採集社会と京大グループによる調査期間

私たちは1970年代から、アフリカ熱帯雨林の狩猟採集社会や焼畑農耕社会に関する調査をつづけてきた。主な関心は、森に強く依存して生活する人びとの自然に対する認識と利用の実態を明らかにすることであった。最近になってようやくそうした問題にも注意が向けられるようになったが、私たちが調査を始めた頃には、人類学者ですらそんなことに関心をもつ人はあまりいなかった。しかし私たちにとっては、彼らの助けを借りながら森と人の関係という奥深い知識の世界にわけ入っていくことは大きな喜びであった。

彼らが森の動植物について豊かな知識をもっていることは、短時間でも一緒に森を歩けばすぐに理解できる。大小さまざまな樹木や地面に残る動物の足跡、どこからともなく聞こえる物音について、彼らはどんなに多くのことを語ることか。森のキャンプを一瞥するだけでも、彼らがいかに多くを森に負っているかを知ることができる。小さな家屋をはじめ、運搬用の籠や蔓などはすべて森でとれた素材からできている。キャンプのあちこちに森で採集してきた果実や根茎がある。子どもたちの遊び道具も森の植物の実や葉でつくったものが多い。そして日が暮れれば、わきたつようなポリフォニーに呼応して森の中から現れた「精霊」とともに夜更けまで歌い、踊る。食生活や住居、道具のような物質面だけでなく、遊びや儀礼といったことにまで、生活のあらゆる側面において森との密接な関わりがみられる。彼らの文化が、森が有するさまざまな可能性を存分に利用したものだということがよくわかる。

私たちはそうした彼らの「森の文化」の把握を目指して調査を進めているが、なかでも力を注いでいるのが植物に対する知識の収集と整理の作業である。「アフローラ(AFlora)」と名付けられたこのプロジェクトでは、物質的・精神的、また直接的・間接的な利用と認知、すなわち森の植物に関する知識の網羅的な記載が試みられている。それは彼らの「植物文化百科」を作る試みであり、彼らが何世紀にもわたって蓄積してきた知的遺産を保全する企てとも言える。

人間の生活環境としての熱帯雨林

彼らが多様な森の資源に依存していることは明らかであるが、実は熱帯雨林において狩猟採集の産物のみに依存した生活が可能かどうかについては議論が交わされているところである。熱帯雨林は一見すると膨大なバイオマスを有し豊穣そのもののイメージを与えるが、それを人間の生活環境としてみた場合にはまた別の評価になる。中央アフリカの狩猟採集民は長い間、この地域の多数派を占める農耕民が西アフリカのサバンナ地帯から森林に移入する以前の先住民だと考えられていた。しかし、1980年代後半から、こうした「狩猟採集民=先住民説」に疑問が呈されるようになった。その根拠としてあげられたのは、現在の熱帯雨林の狩猟採集民はすべて周辺の農耕民との間の交換、あるいは自身の農耕活動によって入手した農作物に食生活のかなりの部分を依存していること、過去にも純粋な狩猟採集民が熱帯雨林の中で生活していたことを示す考古学的証拠が発見されていないこと、そして、そもそも熱帯雨林のなかには人間の生存を支えるに足る十分な食物基盤がなく、とくに果実が入手できない乾季にはエネルギー源が極端に不足すること、などである。とりわけ、最後の食物基盤の問題は、熱帯雨林での狩猟採集生活を支える鍵植物として注目された野生ヤムにちなんで「ワイルドヤム・クエスチョン」と呼ばれ、その後のいくつかの研究においてこの問題が議論されてきた。しかしそれらの多くは、野生ヤムの種類やそれらの分布密度等に関する研究で、実際の狩猟採集生活の観察にもとづいてこの問題を実証的に検討したものは皆無であった。

アジア・アフリカ地域研究研究科大学院生のYasuokaは、カメルーンの狩猟採集民バカの人びとが乾季に実施するモロンゴと称する長期の狩猟採集行に全期間にわたって同行し、この期間の生計活動と食生活に関する定量的なデータをもとに、食料源が一般的に乏しいとされる乾季においてさえ、狩猟採集のみに依存する生活が可能であることを世界ではじめて実証した。モロンゴの期間のバカの食物は、20種あまりの哺乳類・爬虫類の肉と、10種ほどの植物、それに川魚や蜂蜜、食用昆虫などから構成されているが、そのなかでもとくに野生ヤムが重要で、これだけで摂取エネルギーの7割近くを占めていた。Yasuokaはさらに、後続の調査で野生ヤムの分布について徹底的に調べ、それをもとに森の歴史を考える上できわめて興味深い指摘をおこなっている。すなわち、彼らが重点的に利用する野生ヤムの群生地の形成に、過去における人間の居住や生計活動が肯定的なインパクトを与えているのではないかと言うのである。

Yasuoka君が参加したモロンゴの一例(Yasuoka 2004)

植生環境に対する人間活動のインパクト

野生食物の分布に過去の人間の居住や生計活動が少なからぬ影響を与えていることには、私たちも以前から気にかかっていた。たとえば私たちは、1980年代にコンゴ北東部のイトゥリの森で狩猟採集民のムブティの人たちが利用する食用植物の調査をした際に、それらのなかに日光がよく当たる場所でしか発芽・成長しない、いわゆる陽樹が多いことに気がついた。熱帯雨林の中で光がよくあたる環境といえば、風雨や落雷による倒木などによって林冠に空隙が生じた「ギャップ」である。しかし、森の中にはそれ以外にも、さまざまな人間活動によって形成されたギャップがみられる。たとえば蜂蜜採集のために樹を倒せばそのようなギャップができるし、森のキャンプ地では邪魔になる大小の樹木が刈り払われて自然のギャップよりも大きな開放空間が形成され、陽樹が生育しやすい環境が整えられる。これに加えてキャンプ地では、食べ残しの根茎や果実の種子が廃棄され、そこからあたらしい植物が成長する。実際、キャンプの周囲を歩いてみると、あちこちにそうして芽生えた有用植物の実生を見ることができる。甘い果肉をもつ森の木の実には、果肉と種子が離れにくいものがあり、それらは種ごと呑み込まれる。そうして人間や動物の消化管を通って排泄されることによって種子の散布や発芽が促進されるような植物もある。

さらにキャンプ地の生活から生じる別の効果もある。数十人もの集団が何日も滞在するキャンプでは、森の中の広い範囲から集められた薪や食物等の生活物資が灰や排泄物となって蓄積し、周辺の土壌が肥沃化される。ざっと試算したところ、50人ほどの集団が1ヵ月間キャンプに滞在する間に、食物だけからでも硫安にして200−250?に匹敵するほどの窒素がキャンプ周辺に蓄積されるという計算になった。熱帯雨林の土壌は貧弱だといわれるが、キャンプ地は森の中で稀薄に散在する土壌養分を人間活動の介入によって集積させた場所である。このようにして、キャンプ地周辺の資源は短期的には消費されて減少するかもしれないが、将来の再生産の種がまさにそうした消費を通して播かれている。いうならば、彼らの生活は森の資源を含む生態系の循環に貢献してきたのである(もっとも現在では、森林産物の商業化や伐採によって、大量の物質が森の外に搬出されたり、流出することによって、このような循環の切断が進んでいるのであるが)。

農耕活動は耕地化、すなわち地上の植被を取り除くことを伴うので、さらに大きなインパクトを森林環境に与えることになる。しかし、これとても否定的な側面ばかりではない。畑の跡地が光を好む植物の生育を助けることは言うまでもないが、それ以外にも、放棄されたばかりの焼畑にはまだ食用となる作物が残っていることが多く、そこに野生動物が集まってくる。さらに年数を経た二次林は、原生林に較べて平均して2倍以上もの野生食用植物を含むという報告もある。しかも、農耕民も狩猟採集民も、植民地政府の政策によって主要な道路沿いに移住する前には、森の中で分散して居住し、移動性の高い生活を営んでいたことが知られている。実際に衛星写真などでみると、そのようなかつての集落の跡を、森の中のあちこちに残る古い二次林として確認することできる。

焼畑農耕民の村と畑。かつてはこのような村と畑が森の中に点々と分布していた。

現在、21世紀COEプログラムにより、アジア・アフリカ地域研究研究科の大学院生らが中心となって森林環境に及ぼす人間活動のインパクトの調査にあたっている。彼らは、森の中の原生的植生や、キャンプや集落、畑の跡地などのさまざまな植生において、有用植物の生育状況や人間活動の痕跡とその影響に関する詳細な調査をおこなっているが、とりわけ、前述した野生ヤム等の有用植物の分布とそれに対する過去の人間活動の影響に強い関心を払っている。また、かつては森林地帯に広く分布していた焼畑農耕民の移動の歴史と集落放棄後の植生変化についても調査しており、それによれば現在国立公園の設置が予定されている地域の中にも点々とかつての人間居住の跡を示す古い二次林が分布するという。もしかしたら、この地域の豊富な動物相と過去の人間活動との間になにか生態学的な関係があるかもしれない。いずれにせよ、こうした一連の調査によって自然環境に対する人間活動の肯定的なインパクトが立証できれば、彼らは、単に森とその産物に依存するだけでなく、それらの再生産の条件をも整えていることがわかるであろう。

コンゴ盆地の森林景観を読み替える

人間活動の形跡はコンゴ盆地ではかなり古くからみつかっている。1992年にコンゴ共和国北部のモタバ川沿いで森林内の土壌を調査していた私たちの仲間(塙狼星、中条広義)は、地下に数層からなる炭化物の層を発見した。それらの炭化物の年代測定をしてもらったところ、一番深い層から出土した炭は2,600年ほど前のものであることが判明した。熱帯雨林では自然発火によって広範囲な野火が起きることは稀なので、これらの層はいずれも人間によるもの、すなわち焼畑に伴う野火の跡と考えられる。コンゴ盆地の森でこんなに古い時代から焼畑が営まれていたことを示す証拠に、私たちは強い印象を受けた。

コンゴ盆地西部で発見した地中の炭化物 (塙狼星撮影)

人為の跡ということに関しては思い当たることがほかにもある。森のなかに突然、赤い土に覆われた場所が現れることがある。熱帯雨林地帯における赤土は、地表面が降雨と日射に直接さらされることによって形成されると聞いていたので不思議に思ったが、そのようなところはかつての農耕地か集落か、かなり開けた空間だった可能性がある。それにそもそも、この地域の森林の形成自体が人為の関与を疑わせるものである。コンゴ盆地西部には、降水量が季節的に変化するため通常の熱帯雨林とは異なった半落葉性樹林が広がっている。その主要な構成樹種はアオギリ科(Sterculiaceae)のTriplochitonやシクンシ科(Combretaceae)のTerminaliaなどの直径1−2?に達する大木であるが、これらはいわゆる陽樹の類であり、発芽・成長にはかなりの広さの開放空間が必要である。しかも、これらの樹が卓越する森の中に入ると、次世代を継承するはずのこれらの稚樹がほとんどなく、みな大木ばかりである。こうしたことから四方かがり(現在、農学研究科特別研究員)は、これらの樹種が成長した環境は現在のように鬱閉した森林ではなく、かなり大規模な開放空間であった可能性が高いと考えている。そうした空間の形成に、たとえば焼畑に伴う伐開などの人為の関与があったとすれば、この地域の森林の見方もずいぶん変わるに違いない。

イトゥリの森の中央部。右上の衛星写真の黄色の部分は二次林で、かつての道路沿いや森の中に点々と残る以前の集落跡地にみられる。

コンゴ盆地を上空から眺めると、見渡すかぎりの原生林がつづくようにみえる。しかし、コンゴ盆地の現在の森林景観は、たとえ原生的な状態で残っているようにみえるものであっても、実は何世紀にもわたる人為の影響を受けている場合が多いのである。三千年近く前に西アフリカのサバンナからコンゴ盆地の森林に移住してきたバントゥー系の焼畑農耕民は、千年以上前に一部の湿地帯を除くこの森のほぼ全域に分布をひろげていた。もちろんその人口密度は低かったことであろう。しかし彼らが頻繁な移動を繰り返しながらこの森のいたるところに足跡を残すのに、三千年もあれば十分であろう。「熱帯雨林」を書いた植物生態学者のリチャーズも、アフリカの森はいっけんりっぱな原生林のようにみえても実は古い二次林であることが多いと述べている。今後は、「歴史生態学」の立場からこの地域の森林景観の再検討を行う必要があろう。広大なコンゴ盆地の森林に人為の足跡を認めることによって、この森の「価値」が下がるというのだろうか?私は、むしろそれによって、住民の文化と歴史に配慮した新しい森林保全のあり方を考えるきっかけが生まれるのではないかと期待する。

コンゴ盆地西部の空中写真。果てしなく森が広がっているように見えるが、中に入るとあちこちに人為の足跡が残されている。