!!!第62回 地層を観察してみよう! !!趣旨 今回は、和歌山県北部の海岸で地層の観察をします。和泉層群と呼ばれるこの地 域の一連の地層は砂岩と泥岩が交互に積み重なってできた白亜系の典型的な砂岩 泥岩互層で、アンモナイトを産することでも有名です。地球の営みを解明するた めに地層からどのように情報を読み取るか、その情報をどのように組み立てて地 史を編むか、その基礎を学んでいこうと思います。 !!案内者 *田村茂樹(元・理学研究科地球惑星科学専攻) *通山潔(医学部) !!座学の概要 ::日時 2010年12月21日(火) ::場所 京都大学稲盛財団記念館 ::参加者 9名 (学部生3 [医1;工1;立命館大学-文1]、 院生3 [人環1;AA研1;地環1]、 教職員2 [AA研2]、 その他1) ::内容 *地質調査の目的 *地質学と地質調査の基礎(主に地層の観察と分析の方法) *和泉層群について !!野外実習の概要 ::日時 2011年1月9日(日) ::場所 和歌山県加太海岸 ::参加者 9名 (学部生3 [医1;立命館大学-文1;奈良大学-文1]、 院生4 [理1;AA研2;地環1]、 教員1 [AA研1]、 その他1) ::行程 南海みさき公園駅集合→みさき公園駅→(バス)→小島住吉→(徒歩)→住吉崎→(徒 歩にて巡検)→城ヶ崎→(徒歩)→南海加太駅着→温泉入浴・打ち上げ・解散 !!報告 今回は地層の観察に和歌山県最北部の加太(かだ)海岸に来ました。 {{img kada01.jpg,height=300}} バス停を下りて歩いて行くと、住吉崎が見えてきました。岬の先の崖に地層が見えています。 海岸に沿ってこの地層を観察していきます。 {{img kada02.jpg,height=300}} 加太のあたりには白亜紀の内海性の堆積岩が分布しています。岩相は砂岩と泥岩が交互に積み重なった砂岩泥岩互層がほとんどです(黒い部分が泥岩、白い部分が砂岩)。地滑りによる海底斜面に堆積した土砂の崩壊や、大雨の後の濁流などによってこのような堆積物が形成されると考えられています。 {{img kada03.jpg,height=300}} 砂岩と泥岩では水の侵蝕に対する強度が異なります。砂岩と泥岩では泥岩の方が侵蝕を受けやすいため、砂岩泥岩互層が水にさらされると、砂岩の部分は出っ張り、泥岩の部分は引っ込み、凸凹が層状にできます(差別侵蝕)。宮崎の青島の有名な鬼の洗濯板のような地形はこうしてできたものです。小規模ではありますが、同じような地形をこの加太でも観察できます。 {{img kada04.jpg,height=300}} クリノメーター(コンパスのような測量機器)を使って地層の傾斜(どの方角に何度傾いているか)を測定します。地層の積み重なり方(層序)を構築するための基礎データをこうして集めます。 {{img kada05.jpg,height=300}} よくよく見ると、地層中にはいろんな構造が見られます。 上の写真では真ん中の泥岩層に上から砂岩が貫入しています。泥岩の層理は乱されていないことから、泥岩にできた割れ目に、泥岩の上に堆積していたまだ固まっていない砂が貫入したと考えられます。 {{img kada06.jpg,height=300}} 割れ目の左右で層理面がずれています。このようにずれが生じている割れ目を断層といいます。何百kmも続くような大断層も、実際にはこのような小規模な断層が系統的に連続してできています。 {{img kada07.jpg,height=250}} ハンマーの少し上あたりの層を左右に追ってみると、曲がりくねったり途中で途切れたりしています。 まだ完全には固まりきっていない海底の地層が層構造を維持したまま滑り落ちたときに出来やすい褶曲構造で、スランプ褶曲といいます。 {{img kada08.jpg,height=300}} 砂岩層の底面に矢印の向きに直線状の出っ張りがあります。泥が海底表面にあったときに、小石のような物体や流れの渦によって泥が削られた跡です。その後すぐに砂が堆積し、泥岩が削られた跡が鋳型のように残ったというわけです。このような跡を底痕(ソールマーク)といいます。底痕は砂が堆積した当時の水流の向き(古流向)を推定する重要な手がかりで、それを元に古地形を推定していきます。 {{img kada09.jpg,height=300}} おつかれさまでした! 最後にちょっとおまけです。 {{img kada10.jpg,height=300}} 国民休暇村の直下の海岸には石造りのトンネルがあります。さて何でしょう? {{img kada11.jpg,height=300}} 階段を上っていくと、そこにはこんな建物があります。 実はこれ、旧日本軍が造った砲台跡なのです。日清戦争から日露戦争にかけての頃、加太や友ヶ島では大阪湾や瀬戸内海を敵の艦船から守るために多くの砲台が建設されたということです。高台の上にあり、紀淡海峡を睨める絶好の立地です。