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ヤウンデの魅力の変更点

+私が、ナイジェリアの政情不安のためにラゴスでのフィールドワークをあきらめ、カメルーンの首都ヤウンデにはじめて降り立ったのは、1993年の夏であった。そのとき、日本のアフリカ都市研究のパイオニアである日野舜也先生と一緒だったことは、私にとってとても幸運だった。最初の二日間は、カメルーンを長く研究している先生に、ヤウンデの町をあちこち案内してもらった。日野先生は、あれこれ考えるよりもまず、人びとの生活に分け入り、観察し、おしゃべりすることの大事さ、楽しさを教えてくれたのだった。巨大迷路のような「スラム」の路地にも、人がごった返す市場にも臆せず入っていく日野先生の後ろ姿を、必死に追いかけた。ときどき休憩し、市場のなかのごちゃごちゃした酒屋の店先で冷えたビールを飲んだ。茹でピーナツが、ビールの最高のつまみになると知ったのも、このときだった。その二日目の夕方に、じゃあ、といって町に置き去りにされた。正確にいえば、パリのカメルーン人が紹介してくれた人に会うため、私は先生と一緒に乗っていたタクシーからひとり降りたのだった。が、その人はあいにく留守だった。ホテルに帰ろうにも乗合いタクシーの乗り方もわからず、道もわからず、かといってフランス語で道を聞くこともできず、やみくもに歩き回り、疲れて入った酒屋でビールを飲んだ(ビールの注文の仕方は学んでいた)。そこからどうやってホテルに帰ったかは忘れてしまったが、そのときの緊張感、途方にくれてビールを飲みながら眺めた行き交うタクシーを、今でもはっきり思い出すことができる。
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+ それから、ヤウンデとの長い付き合いが始まった。私はある「スラム」に暮らしはじめ、いつしかその地区の路地を知り尽くし、「この道は○○さんにつかまるかもしれない、今日は急いでいるから回り道しよう」、などと考えながら、縦横無尽に歩けるようになっていた。その地区は、バミレケという名のエスニック・グループが多く暮らす地区で、私はバミレケの年配女性の家に下宿させてもらい、バミレケの人びとの生活を知るようになった。
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+ バミレケの人びとはカメルーンの商業民といわれ、大企業家から露天商まで規模はさまざまだが、自営の商売をして生計をたてている人の割合が高い。しかも、たたき上げの大企業家をたくさん出している。商業民の常ではあるが、彼らは他のエスニック・グループから、あまり好かれていない面がある。しかし私は、誰かに頼らず、自分たちで稼ぎ、生きていこうという姿勢(もちろん個人差は大きい)に興味をひかれた。そして、バミレケの企業家にインタビューをし、ライフヒストリーをとった。彼らは、周りの環境に恵まれてきたとはいえないが、自分を信じ、成功を信じ、勤勉に働いていた。そのようなバミレケの仕事ぶりについて、他のエスニック・グループの企業家も、一目置いていることがわかった。自営業で成功しようとしている人びと同士には、エスニック・グループを超えて互いに尊敬があった。また、小規模な商店主たちも、成功を目指し、毎日仕事に精を出していた。ヤウンデに家を建てる、故郷に家をたてる、子どもを大学にやる、仕事を大きくするなど、それぞれが夢を語ってくれた。
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+ バミレケはまた、自営業者に限らず、フランス語でトンチンと呼ばれる頼母子講を活発に組織していた。彼らは出身村ごとに同郷会をつくり、毎週集会を行っていたが、どこの村の同郷会も例外なくトンチンを行っていた。同郷会のトンチンは、毎週全員が決められた金額を持ち寄り、一部の人がその全額をもらうという仕組みであったが、このトンチンによって、彼らは商売の資金をつくり、子どもを学校にやり、土地を買い、家を建ててきた。また、トンチンのために働かざるを得ない状況は、彼らの資本の蓄積を容易にしてきた。トンチンが彼らを商業民にしたといえる。
+ トンチンを駆使し、賢明に働き、一代で成功した企業家たちは、賄賂でリッチになる政治家や高級役人とは違い、若者たちの憧れ(と嫉妬)の対象である。カメルーン・ドリームを実現するのは昔より難しくなったと嘆く人も多いが、それでも私は、成功を夢見て働いている人をたくさん見てきた。彼(彼女)らのような人こそ、ヤウンデという都市を魅力的にしていると思う。
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+ はじめてヤウンデを訪れてから、もう20年がたつ。ここ最近はヤウンデに行けていない。知り合いがあちこちいるあの慣れ親しんだ路地が巨大な迷路になる前に、戻らなくてはと思っている。